熊本地震の余震が続く中、いくつかの避難所に鯉のぼりが泳ぎ始めました。
端午の節句を前にして、ストレスがたまっている子どもたちへのプレゼントですね。
わたしも、熊本で崇敬を集める加藤清正――清正公せいしょこ の武者絵旗 画像をアップして応援します。
去年、アトリエの庭に加藤清正の武者絵旗を吊るした時のブログをご覧ください。
参考拙ブログ
実物はタテ5Mを超える長さ。厚手の綿布に蝋結染めで作られています。染料は退色していないものの、60年は経っているでしょうか。繊維が弱っているので屋外に常時掲げられません。
無名の職人さんが心を込めて作っているので、今年も皆さんに見ていただきたいと思いました。
武者絵旗 加藤清正 虎退治 (虎を除く部分) H 526cm ×W 72cm
旗の絵柄は、秀吉の朝鮮出兵中の清正虎退治(虎狩り)伝説です。
江戸時代の『絵本太閤記』以降に話が拡散したそうで、特に大東亜戦争時に英雄のひとりになりました。 (それもあってか、戦時中の地元第6師団の猪突猛進ぶりは有名です。)
本来、黒田長政と家臣が虎退治をした逸話でしたが、後世に清正の逸話にすりかえられたとか。
お隣の国では、清正は豊臣秀吉、伊藤博文と並び、極悪非道のトンデモナイ人物として教育しています。
日本側では、この逸話は自主規制か、ずいぶん前から避けているようです。
最近の韓国からの日本観光コースを調べると、九州では、博多、湯布院、別府、阿蘇は分かるのですが、神社の門前町太宰府や清正築城の熊本城も人気コースになっています。
熊本城の石垣は、清正が慶州から連れて来た石工たちが作ったとされています。
あの急こう配の石垣は、彼らしか作れなかったそうで、先祖たちが作った高度な技術を確認しているのでしょうか。
旗の絵柄を見てみます。
戦国変わり兜で有名な清正所用の兜は、「烏帽子えぼし形兜」とよばれています。
背が高く、蛇の目の家紋が入る姿は威厳と威光を表しています。
シンプルで洗練された兜は、第一級の美といえましょう。
清正の愛馬「帝釈栗毛たいしゃくくりげ」は、 仏教の守護神から命名。大きい馬だったたそうです。
手にした愛用の槍は、数々の武勲をあげた清正が槍の名人だったことから。
虎を槍で突いた絵が多いようです。さすがの名槍も、虎に噛み折られてしまったという話もあります。
伝承は諸説あり。絵柄として清正の日本刀は少数派、鉄砲使用は見たことがありません。
衣には、もう一つの家紋の桔梗紋が描かれています。
法華宗信者であった清正公。戦の旗は、朱で書かれた「南無妙法蓮華経」。そこまで描かれていれば、時代考証的に言うことないでしょう。
ここで清正公について おさらい。
肥後熊本藩初代藩主。 熊本城や八代城、そして肥前国・名護屋城の天守閣を手掛けた築城の名手。
氾濫をくり返す白川など、暴れ川の河川改修工事や、治水事業・干拓事業、農耕技術の改革と農耕地拡大により、領民の生活が豊かになり、慕われました。
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年貢で苦しめただけの領主とは違うようです。熊本で没。亨年50才でした。
浮世絵師・月岡芳年よしとし が描いた「加藤清正」の絵は、清正が飼っていた猿が主人の愛読書の論語に筆でいたずら書きをしましたが、叱らずに学問好きとして褒めたという 「論語猿」の エピソードでした。 門前の小僧 習わぬ経を読む の例えもありますね。

時代時代で清正のイメージが作られてきました。
「主計頭 加藤清正」 月岡芳年 明治16年
着物は桔梗紋、襖は蛇の目紋で清正となります。芳年、そこのところをしっかり押さえています。
今回の地震で被害にあわれた皆さんの精神的支えとして、清正公に見守っていただきたいと思います。
清正公の銅像――工事クレーンの後方が熊本城。
原付バイクで九州一周した時の熊本市中心部です。(1990/08/09)
後ろの建物は当時のデパート・岩田屋伊勢丹。 その垂れ幕文字は・・・
「祝 がんばれ! 郷土の代表 済々黌高校 第72回全国高校野球選手権大会出場」
その他の参考拙ブログ:
2013年鯉のぼりと金太郎 http://blogs.yahoo.co.jp/rrnwy297/55503779.html