夏の風物詩のひとつ、蚊取り線香。
それが、誕生する以前の人たちは蚊とどう向き合っていたのでしょう。
平安時代には、松葉などの植物を火であぶった煙で蚊を追い出していた記録があるそうです。就寝中だけは蚊帳を吊ってしばし休戦できたとしても、いろいろな防虫グッズがある現在からは想像もできない戦いがあったと思われます。
19世紀末、今から130年ほど前のこと。
KINCHO創業者上山うえやま英一郎は、母校慶応義塾の恩師・福澤諭吉から紹介されたアメリカの植物貿易商人を、実家の手伝いをしている和歌山のみかん園に案内。苗をあげたお礼に、当時まだ日本になかった除虫菊の種子を贈られて殺虫効果を確認します。アメリカでは、主にノミや果実に付く虫対策だったようです。
それから瀬戸内地方や北海道などで栽培を奨励し、1890(明治23)年に、除虫菊の粉末を用いた棒状の蚊取線香の発明に成功します。世界で初めてでした。
除虫菊(和名:シロバナムシヨケギク。キク科多年草)は地中海・中央アジアで14~15世紀に発見されます。旧ユーゴスラビア(現セルビア共和国)が原産地。
その昔、女性が野原から摘んできたこの花を部屋に飾っていたところ、枯れてしまった除虫菊の花束の周りでたくさんの虫が死んでいるのを発見したという話が伝わっています。
(花自体には殺虫効果がなく、花房の殺虫成分ピレトリンを乾燥させ粉末に加工。
そのあとの工程は前回までに書きました。)
第2次世界大戦前まで、除虫菊は重要な輸出品として日本の外貨獲得に貢献しました。
17世紀から18世紀前半にはアメリカに渡ります。
1920年代には、日本の除虫菊の輸出量がユーゴスラビアと競合するまでに成長し、1930年頃の生産量は世界一になっていたそうです。第2次世界大戦前まで、除虫菊は重要な輸出品として日本の外貨獲得に貢献しました。
金鳥 のトレードマークが商標登録されたのは1910(明治43)年のこと。
創業者の座右の銘「鶏口(鶏の頭)と為るも牛後(牛の尻尾)と為る無かれ」
(けいこうとなるも ぎゅうごとなるなかれ)の一節から、最強の金色の鶏が採用されました。
創業者の座右の銘「鶏口(鶏の頭)と為るも牛後(牛の尻尾)と為る無かれ」
(けいこうとなるも ぎゅうごとなるなかれ)の一節から、最強の金色の鶏が採用されました。
出典は司馬遷が編纂したと伝わる中国史上初の歴史書『史記』のなかの「蘇秦伝」。
戦国時代の遊説家・蘇秦は、韓、魏、趙、燕、楚、斉の王たちに同盟を結び、秦に対抗すべきであると説きました。
大国秦の属国になってしまうより、どんな小さな国であっても、そのリーダーになって気概を持ったほうがいいということです。
大国秦の属国になってしまうより、どんな小さな国であっても、そのリーダーになって気概を持ったほうがいいということです。
そうして決まった金鳥のマークの中に創業者上山うえやまの名前が入っています。
創業当時の社名を今も大切にし、創業者を称えている証です。探してみましょう。
※創業者が賭博好き、闘鶏好きだったら、軍鶏しゃもをマークにしていたかもしれませんね。
広島県尾道市の市立美術館南斜面に、金鳥が鑑賞用 の除虫菊畑「白いじゅうたんの丘」を作っています。瀬戸内海の尾道水道を見降ろす丘です。
5月上旬から中旬にかけてマーガレットのような白い花畑が広がるそうですが、私が訪れる時は、いつも違う季節なので、案内板だけが目立つ丘陵地という印象でした。
志賀直哉や林扶美子などの文豪が住んだ街。そして尾道を舞台とした映画―
小津安二郎監督の「東京物語」(尾道で撮影)、大林宣彦監督の『尾道三部作』、「時をかける少女」「転校生」「さびしんぼう」を想いながら、いつかその白い花の季節に女中「キク」と行ける日を楽しみにしておきましょう・・・
参考資料:大日本除虫菊(株)ホームページ
:史記 ウィキペディア他