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Channel: 木ノ下淳一 アトリエ・キノチッタ ブログ
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血液型性格判断 2

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前回の続きです。
 
本当は、血液型による性格判断に当てはまらない人が面白いのになぁ。
ある時はA型。ある場所ではB型。ある人と出逢った時は、また違う型に・・・
 
私の不確かな人間観察によると、今までに縁のあった友人知人や美術教室の生徒さんに、先のような変人、もとい面白い人が多かったのは確かです。
 
―先生らしくない。生徒らしくない。独身らしくない。病人らしくない。
 
型通りの性格を指摘されて喜び、安心する現象は、あちらこちら、どこでも見かける、人と同じ高額ブランド商品を身に付けて満足している心理と同根かなと思います。
 
ちょっと固い話。
従来の血液型に頼らない新手の性格判断も出てきそうです。
 
液環境を悪化させる環境汚染はかなり深刻。その原因物質の一部(PM2.5汚染物質や遺伝子組み換え食品、残留農薬、カドミウム、水銀、ヒ素、各種重金属、抗生物質、成長ホルモン、CTスキャンなどの放射線・・・)が体内を回っています。
 
また、血液クレンジングの問題もあります。
(100cc程度採血し、酸素(オゾンガス)を溶け込ませ活性化させた血液を、点滴で体内に戻します。サラサラ血になるので血液循環がよくなり、細胞の代謝を改善。冷え症や肩こりに効果があるそうです。)
 
旧態依然の血液型性格判断では間に合いませんね。
 
ある日。
見ず知らずの若い人から、突然「お父さん!」と告げられ動転する可能性は・・・
200%ありえませんが、落ち着いて回顧すれば、あの時の献血で、私の血潮がお役に立った人なんでしょう。
そんなドラマを待っています。
 
 

演奏家M氏

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音楽家のM氏がモデルになって下さいました。
太宰府市に隣接する街でミュージックスクールを主宰しています。
ポーズ50分弱のポーズでした。
 
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                                by Jun-ichi Kinoshita 2014
 
 


雨のヒロシマ

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今日86日は「廣島・広島・HIROSHIMA」の日。
繰り返し連呼します。
 
朝のテレビ中継は「雨の原爆忌」を伝えていました。
“晴れの特異日”だったはずですが、これも温暖化の影響でしょうか。
 
最近、被爆者の語り部に暴言を吐いた修学旅行生がいました。
あの時のことを若い人たちは知らされていないのかな。
 
ちょうどハリウッド映画「ゴジラ」が上映中です。
ご存知のようにオリジナルの「ゴジラ」は、1954年のビキニ環礁における水爆実験で被爆した第五福竜丸にヒントを得て製作されました。
 
「フクシマ」のことも、本当のことは分かりません。
事故後のジャーナリズムが流す価値観と、後日出てくる極秘文書などの公開によってわかる真相とのズレはあると思いますが、現実に起こった以上、ヨード接種や避難訓練をはじめ“放射能下”の対応教育もしないといけない時代に突入したことは確かですね。
 
 

原爆ドームの設計はチェコの建築家

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広島の原爆ドーム(開館当時は広島県物産陳列館。原爆投下当時は広島県産業奨励館。)は、今から約1世紀前の1915(大正5)年に完成しました。
設計者は、チェコの建築家ヤン・レッツェル(Jan Letzel 1880 – 1925)。
 
明治維新以降、海外から大勢の建築技術者が来日。チェコ人技術者たちも指導者として大事に迎えられました。
彼らは、来日前から米国、フランス、北アフリカなどの国々で実績をあげ、日本でも豪華な作品を多く残しましたが、残念なことに関東大震災(1923年)や戦災などで、ほとんどが失われました。
しかし、その後の日本建築界のリーダーたちを養成したことは確かです。
 
ヤン・レッツェルの日本での作品―広島県物産陳列館(原爆ドーム)は、現存する貴重な建築物です。
 
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                photo by  Jun-ichi Kinoshita 2011
 
写真の建物は、広島県物産陳列館(原爆ドーム)を設計したヤン・レッツェルと同じチェコ人の、ジョセフ・ファンタによる通産省庁舎です。(1932年竣工
チェコ・プラハの、旧市街と城下町の間を流れる ヴァルタヴァ川 ドイツ語:モルダウ)河畔に建つ美しい建物です。
二つの建物、規模は違いますが、共通点も感じられますね。 
 
プラハの歴史地区原爆ドームは、いずれもユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。原爆ドーム登録時、アメリカは直前まで反対し、中国は棄権したと聞いています。
 
2011年の晩秋、旅行会社(日放ツーリスト)と共同企画した美術館・博物館鑑賞ツアー「ブダペスト・ウィーン・プラハ芸術散歩」で、プラハに滞在した時に、庁舎と対面しました。
屋上のガラスドームを貫いた朝陽が印象的でした。
 
同行講師の仕事として、ヴァルタヴァ川沿いを移動するバスの中で、逆光のシルエットに映える通産省庁舎の建物を仰ぎ見ながら、広島原爆ドームとの関連話をしました。
その時、車内に、チェコを代表する作曲家スメタナの『我が祖国』モルダウを流していました。
 
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                 photo by  Jun-ichi Kinoshita 2011
 
 

植物に詳しいモデル嬢

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先日、アトリエのデッサン会に来てくれた若いモデル嬢。
帰りに庭先で果樹の話をしました。
立ち話の足元で実っているイヌビワのことをよく御存じでしたし、果実酒にも詳しく、渋い趣味をお持ちと感心した次第。
 
イヌビワ(犬枇杷・クワ科イチジク属)。
 
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ビワに似ていますが、、ビワと比べて美味しくないところから、「イヌ」が付いたと教えてくれました。
 
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                                            by  Jun-ichi Kinoshita 2014
 
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by Jun-ichi Kinoshita 2014
 
 

夏休み子ども映画ブログ相談 1

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学校が夏休みになって、毎年恒例のラジオ番組「NHK夏休み子ども科学電話相談」が始まりました。
「学年は?」
「6歳です。」
「男の子かな?」
「女です。」
「なぜ命はひとつなんですか?」
朝から鋭いツッコミが続出。珍回答の先生と一緒に考えてしまいます。
「それはカオスだよ。きみ、わかったかな?」という感じで答えるタイプの先生もいて、シンプルに答えることの難しさを改めて知ります。
 
高校野球中継がある間、ひいきの番組が中断するので、早く高校野球が終わらないかなぁと思います。
(個人的には、甲子園に立てなかったチームの皆さんを応援しています。)
 
さて今日は、夏の休暇中に子どもの視点で捉えた映画を、私が今までに映画館で観た中から選び、紹介しますレンタルビデオ店にあるものを優先しました。
(この企画も恒例になりそうです。他にまだ素晴らしい作品があったような、何か忘れているような・・・)
先ず台湾と韓国の映画から。
 
冬冬トントンの夏休み
原題:冬冬的假期(A SUMMER AT GRANDPA’S) 1984年 台湾
監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン「童年往事/時の流れ」 )

原作・脚本家の方の繊細な幼年時代をテーマにした自伝的映画。冒頭は、「となりのトトロ」の実写版のようなスタートです。撮影された台湾の風景は、私の子ども時代の田舎にも似て懐かしく、そして戦後も残された日本家屋がロケ地に使われるなど、親しみを憶える作品です。子どもの周りで、いろいろな性格や立場の大人たちが大勢出入りすることの大切さを思いました。
 
おばあちゃんの家
(THE WAY HOME ) 2002年韓国
監督イ・ジョンヒャン
 
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写真は映画チラシ
 
登場人物は、皆さん素人とのこと。だからというわけでもありませんが、淡々と話が進行します。カメラの前で演技しないおばあちゃんが最高。
ソウルから田舎に預けられる生意気な子どもが、またいい。
(“おとなしい”ということが“大人らしい”につながるのであれば、子どもにとって大人らしくないほうがいいのであって・・・でも、こんな孫は疲れます。)
3世代間の価値観の差が静かに流れます。                  続く
 
 

夏休み子ども映画ブログ相談 2

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前回の続きです
 
次はフランス映画から。
バカンス大国ですから、このジャンルの映画はいっぱいあります。
 
海辺のポーリーヌ
1982年 仏
監督・脚本:エリック・ロメール
 
15歳の少女が、ノルマンディーの海岸の避暑地にやってきて・・・
 
ぼくの伯父さんの休暇
1952年 仏
監督・原作・脚本・出演:ジャック・タチ 
 
フランスのバカンスを軽やかな笑いに誘います。美しい映像のコメディです。
気に入った方は、『ぼくの伯父さん』も御覧ください。
 
プロヴァンス物語 マルセルの夏』 1990年 仏
プロヴァンス物語マルセルの城』 1991年 仏 
プロヴァンス物語シリーズは「夏」が先で、「城」を後で観ることをオススメします。
 
クリクリのいた夏 1999年仏
 
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                                     写真:映画パンフレット
 
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                             写真:VHSビデオコレクションから
 
最後の3品は、昨年夏のブログに詳しく載せています。クリックして下さい。
 

「氷雪の門」 本当のことは語れない 1

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今回はちょっと長くなります。
8月15日を終戦記念日と言うことに、私は抵抗があります。
昭和20(1945)年8月15日は、ポツダム宣言を受諾し、大日本帝国陸海軍が無条件降伏した日であって、それ以降も、外地の白旗を掲げた日本兵や民間人に対しての攻撃や、飢餓、病気、ケガなどとの戦いは続いていました。
 
極寒の収容所送りや強制労働、残留邦人の引揚げが戦後何年もかかったことなどを考えると、8月15日を“終戦”の日だなんて、とても言えません
「敗戦の日」、または「降伏の日」と呼ばなければ、亡くなっていった方たちに申し訳ない気がするのです。
これを自虐史観というなら、なんと潔くないことでしょう。「もののふ」が聞いて呆れます。
 
日本人だけが被害者だったとは言いません。撤退する日本軍の一部が、現地の中国人や朝鮮人を証拠隠滅で殺したとの報告が元日本兵からの証言であります。逃げる際に部隊が、日誌や機密文書を廃棄、焼却したという事実を知ると、その混乱ぶりが想像できます。
15日以降、加害者でもあったことは、認めなくてはなりません。

戦勝国を中心に、映画や小説をはじめ、各種メディアで数多くの戦争特集が組まれます。最近感じることですが、以前と比べて日中戦争や太平洋戦争の検証が減り、ナチス・ドイツ関連の正確な史実によるものが増えたような気がします。
欧米諸国のほうが戦争責任の追及を徹底し続けているということでしょうか。
 
さて日本です。第二次世界大戦を直接体験した、当時10代前後の人たちも高齢者となり、正確な証言を得るギリギリの時期になっているようです。
大変悲惨な体験をされた方は、真実を語りたくないし、ペラペラしゃべる人は美化した体験談が多く、客観的な記録収集が困難な状況になってきました。
 
その当時の歴史を、学校では時間をかけて教えてはくれません。
日中戦争や太平洋戦争を試験問題で問うことは、デリケートな背景があり、タブーだから、入学試験には出題されない。
だから勉強しなくていい。
暗い、重い、うざい、つまんない、興味ない・・・
広島や長崎、沖縄の語り部に対し、若者がスマホを見続けたり、罵倒する時代です。日本史の流れにおける中ヌケ状態を感じます。
 
司馬遼太郎も、この時代の詳しい描写を避けたくらいです。
窮鼠猫を噛む・・・第一次世界大戦あたりからの深い闇があることは想像できます。パンドラの箱を開けず、地雷も踏まずにおきましょう、ということですか。
 
百歩下がって考えてみます。千年、二千年前の歴史を猛勉強して、おじいちゃんや、おばあちゃんの個人的な幼年期や青春時代を全く知らないまま平気っていうのも、なんだか妙です。
邪馬台国論争をし、織田信長の死因を探るのも結構。でも、つい数十年前の祖国の歴史や祖父母の青春を知らないなんて・・・やっぱり変です。
 
私が、先の戦争にこだわるのは、親の戦争体験が大きく影響しているからだと思います。
戦時中、父の家族は、新聞記事になるくらいの軍国家族でした。
親子4人が戦地に行き、空母・飛龍に乗っていた叔父はミッドウェー海戦で亡くなっています。旧制中学の生徒だった父は、沖縄戦に向かう直前に、宮崎の部隊で玉音放送を聞きます。家は空襲で焼けました。
 
母の家族は、“北方領土”樺太(現在のロシア・サハリン)からの引揚げ者です。
戦後2年間をソ連の占領下で暮らし、財産没収の丸裸での帰国でした。
 
昭和20(1945)年8月14日、最後の御前会議に出席した海軍省軍務局長・保科善四郎という人物が、母の大叔父なので、その親戚の影響も、こだわりの一因にあります。
戦時中の枢機にかかわる重要会議の模様を書き留めた「保科メモ」で知られ、戦後、野村吉三郎元大将、山本善雄元少将らとともに、海上自衛隊の前身、海上警備隊創設に深く関わりました。(映画『日本のいちばん長い日』にも登場します。)
 
叔父たちは保科氏に会っています。私は、学生時代に会おうと思えば会えたのですが、若気の至りか、反骨精神からか、話を直接伺うことはありませんでした。
今となれば一度、話を聞いておけば良かったと思います。このことは、またいつか別の機会に・・・
 
以前、両親どちらも、私が戦争の話を聞いた日は、興奮して夜が眠れないと言っていました・・・
 
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写真の絵は、8月9日夜、ポツダム宣言受諾を決定した宮中防空壕での御前会議の様子。
中央は天皇陛下。横に立つ人物は鈴木貫太郎首相。左より二人目が保科氏。(保科氏著書から)

 
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写真の絵(白川一郎画・鈴木記念館蔵、部分)は、8月14日最後の御前会議。
23人の列席者で開かれました。左より五人目が保科氏。
 
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※参考文献:左から
太平洋戦争秘史―海軍は何故開戦に同意したか(保科善四郎他共著・財団法人日本国防協会)、
米内光政(阿川弘之著・新潮社)、
井上成美(阿川弘之著・新潮社)、
井上成美(加野厚志・PHP研究所)                                 続きます
 
 

「氷雪の門」 本当のことは語れない 2

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前回からの続きです。
 
東北大震災の時、宮城県南三陸町の防災庁舎で、最後まで「高台に避難してください」と避難を呼びかけ殉職した若き女性職員のことが報道されました。
 
すぐに、北海道の北、樺太は真岡郵便局の、女性電話交換手の悲劇を想い浮かべました。
 
昭和20(1945)年8月15日の日本軍が降伏した日を過ぎた20日、真岡にソ連艦隊が艦砲射撃。港内にあった日本の船舶は拿捕か撃沈。上陸したソ連兵は町の角々で機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く撃ち殺し、町は戦場になります。
上陸後の激しい攻撃中でも職場を放棄せず、最後まで通信連絡の仕事を遂行し殉職した交換手たちの実話です。占領の混乱期に10万余の住民が亡くなりました。
 
映画『樺太1945年 夏 氷雪の門』(1974年JMP製作、村山三男監督、金子俊男原作)は、その混乱ぶりを題材にした衝撃作品です。しかし、この映画の存在を知る人はごくごくわずか。
(女の子たちに大ヒット中の映画『アナと雪の女王』と比べれば・・・いや、考えるまい
 
JMPという小さい独立プロが製作。最初、東宝系で全国配給の予定だったのですが、上映予定直前にお蔵入りになったという、いわくつきの作品です。
当時、ソ連大使館の圧力説や会社の自主規制説がささやかれ、さらに会社に保管されていたフィルムも行方不明か・・・と多くの謎に包まれた映画です。
表現の自由が奪われた作品のひとつとして、日本映画史の中で記憶すべき事件でしょう。
 
私は、東映洋画部配給で限定上映された時に東京で観ました。上映後、観客がすぐ席を立たない異様な空気だったことを記憶しています。
後日、福岡で観た母は「キレイごと。」 の一言でした。
(映画製作に当たった人たちは、話し合いを重ね、悲惨なシーンをあえて撮らなかったそうです。)
 
現在、当時の助監督・新城卓氏らの御尽力で、保存状態が劣悪なフィルムをデジタル処理し、当初より、40分弱短くなりましたが、なんとか鑑賞に耐えられるところまで修復された画像のDVDが販売中です。※「氷雪の門」製作委員会
 
映画(全編)  https://www.youtube.com/watch?v=QFueq5PKNwo・・・配給:太秦 YOUTUBEから

 
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『樺太1945年 夏 氷雪の門』 東映宣伝部製作のパンフレット
 
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二木てるみ
 
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二木てるみ 藤田弓子
 
 
唖然呆然、阿鼻叫喚の中、外地から引揚げて来られた方の証言に共通する事として、次のようなことを言われます。
 
逃避の際にソ連・中国・朝鮮などの兵隊や復讐する民間人に見つからないよう、泣いている乳幼児を殺さなければならなかったこと。
歩くことがままならない子ども、老人や病人を置き去りにしたこと。残留孤児ですね。)
敗戦情報を早く入手した多くの軍人や官庁職員の家族が、最優先に専用車両で先に逃げ、民間人を乗せず見捨てて帰国したこと。
飢餓や襲撃、暴行、略奪、強姦・・・
集団自決に至っては軍の命令で実行した所もあるそうです。
帰国した引揚げ者の方々の口が重いのも、無理はありません。
 
最初、「樺太1945年 母たちの夏 ソ連占領・引揚げ体験」というタイトルで詳しく書こうと、今日の今日まで考えていました。しかし、ブログという半公開の場で載せてしまうと、生存されている関係者の方々に迷惑をかけることにもなるので、今回は止めておきます。
調べた資料は、母のもとに届いた樺太時代の同窓生からの手紙や写真、また樺太引き揚げ者の体験記など何冊もの出版物があるので、いずれ正確な形で残したいと思います。
 
ここで私の駄文にかわり、平壌(現ピョンヤン)から引き揚げてきた作家、五木寛之さんの著作
運命の足音(2002年 幻冬舎)を推薦します。
引き揚げ時に封印してきた体験を告白した文章です。
母の体験した話と重なる部分が多いので、紹介しました。
 
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平成14(2002)年8月15日、福岡市で催された出版記念講演会を拝聴しました。
私の好きな歌手、山崎ハコさんがゲストで友情出演。
「織江の唄」などのギター弾き語りがありました。
 
 
参考映画
乳泉村の子1991年 中国・香港合作
原題:清涼寺聲(THE BELL OF THE QING LIANG TEMPLE )
監督:謝晋シェ・チン (芙蓉鎮」)
配給: 東宝東和
 
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写真:『乳泉村の子VHSビデオ 
東和ビデオ・ポニーキャニオン販売
(コレクションから)
 
日中戦争末期の中国河南省・乳泉村。日本軍が撤退した後に捨てられていた日本人孤児が、中国人一家に育てられます。
犬坊と名付けられて成長した青年は、来日し、実の母と再会します・・・
今日ほど“嫌中”と叫ばなかった頃の中国側からの作品。
同じく中国残留孤児を扱ったNHKドラマ、
山崎豊子原作『大地の』も必見。
レンタルあり。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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東映宣伝部製作のパンフレットから
 
 
北海道最北端 稚内市稚内公園に建つ記念碑「氷雪の門」。
視界が良ければ、宗谷海峡を見降ろすこの公園から40キロほど先にある樺太が見えるそうです。
学生の時、雪深い終点の駅を降りて、「さいはて」という名の民宿に泊まりました。
予約をしていませんでしたが、すんなり上げてくれました。
その夜、薄い壁越しに紅白歌合戦が聴こえていました。
 
 
 
 

ブログ開設2年目 御挨拶

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こんにちは。
いつも このブログに訪問して頂き感謝しております。 
 
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昨日、ブログ開設2年目を迎えました。 
 
ブログを書くって、寂しいんじゃない?と聞かれたれこともあります。
自分のことは良く分かりません。
どうなんでしょう。
魂のブログを目指して、これからも
がんば・・・らないでしょうねぇ。
  
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ノートパソコンを前にして、未だにキー操作は初心者並み。
下を見ながら適当な指操作で打っています。
同じ打ち方をしないで楽しむ。
そんな境地です。
 
手書き原稿、自筆原稿が早く書けるんですけど・・・リハビリですね。
  
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コメントや返事無しの一方通行の拙いブログに不平、不満、お小言、罵詈雑言が聞こえて来ないのが幸い
 
小心者です。とにかくパソコン操作が苦手な私としましては、お返事を出すまでに至っておりません。私宛のメールも開かず、いつもお叱りをうけている状態でして。
ここは、心の往復書簡・・・
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ネットオークションやアマゾンなどのネットショッピング?
一度も体験したことがありません。
また、画面上に「ナイス!」 「いいね! 」「ツイート」「チェック」「ファン」「お友達」などの表示が出ているものの、その意味や意図するもの、概念も無し、お返事操作も当然できないというわけです・・・
 
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これに懲りず、これからも、どうぞ
宜しくお願い致します。
貴重な御時間を有難うございした。
 
 
 
 
 
 
 
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まだ見ぬ貴女へ。
いつかどこかでお会いしましょう。
 
胸元の」黄色いハンカチーフがサインです。
 
 
  
 
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失礼いたします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

映画 『赤毛のアン』と連続テレビ小説『花子とアン』

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NHK連続テレビ小説で毎朝放送中の『花子とアン』。
二人のヒロインの片方、赤毛のアンの翻訳者、村岡花子の生涯を描いた作品ということで注目されています
 
私が小さい頃は、“赤毛”というだけで、いじめが残っていた時代でした。
現代の子どもたちは、赤毛や天然パーマに対して抵抗がありません。
 
でも、「鼻毛のアン」とか「赤毛牛のアン」とか言って、からかうのかな。
子どもは残酷です。
 
現実、お姉さんたちだけでなく、熟れたトウモロコシみたいな髪をした中高生をよく見かけるし、小説の主人公アンが、ひきこもりだとか、アスペルガー症候群だと分析する子どももいる時代です・・・
 
さすが名作だけあって、『赤毛のアン』は何度も映画化されてきました。
1934(昭和9)年、日本で初公開された時のタイトルは 『紅雀』。
これ、いいですね。80年前ですよ。
次に、1940(昭和15)年、『アンの幸福』の邦題は 『そよ風の町』。真珠湾前です。
原作本が初めて日本に入ってきたよりも、映画のほうが早かったようです。
 
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映画  
赤毛のアン』 
(1985年 カナダ・米・西独 141分)
原作の舞台、プリンス・エドワード島でロケ。
あと南オンタリオでロケ。
 
提供:松竹富士
 
 
写真:
レーザーディスクコレクションから
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映画  
続・赤毛のアン 
         アンの青春』 
(1988年 カナダ 165分)
シリーズ第2部
※1998年、220分の完全版が作られました。
 提供:松竹富士
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この後シリーズ第3部『アンの結婚』も作られますが、原作と違いすぎるとの意見があります。
 
 
 
 
 
裏ジャケット
写真:
レーザーディスクコレクションから
パイオニアLDC
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
赤毛といえば、髪の毛を真っ赤に染めたヒロインが活躍する映画があります。
ラン・ローラ・ラン』 (: Lola rennt、 Run Lola Run)は、1998年ドイツ映画です。
トム・ティクヴァ監督。
テクノ音楽と、アニメが一部入ったベルリンの街の映像は、今見ても古くないです。
『ラン・ローラ・ラン』 の一部映像 http://youtu.be/ppeZQ8inevE・・・YouTube
 
今日のまとめ:
私の朝ドラは、「雲のじゅうたん」浅茅陽子と、「信子とおばあちゃん」大谷直子かなぁ。
昭和40年代、中学生の時に見たものが歴代トップ?
テーマ曲は、空で弾けますぞ。 実は女優で決めました。

 

夏の夕陽に照らされた仲良し

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広島市北部で発生した、大規模な土砂災害の映像に言葉が出ません。
こちら地元福岡でも、夜中から未明にかけての局地的豪雨で、土砂災害警報が
発表されていましたが、昼前に解除。
深夜の激しい雷鳴と稲光で、家が揺れました。皆さん寝不足です。
 
この夏は、連日の雨で梅雨のよう。日照時間が足りないことを実感します。
稲の発育が心配。稲光とは良く言ったものです。
 
夕方、久しぶりに見た濃厚な夕陽が、部屋の奥深くを照らし出しました。
 
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西窓から射しこむ夕陽を受けて浮かび上がる仲良し
左:快獣ブースカ ©円谷プロ、BANDAI 1992),右:ウルトラQ カネゴン(©円谷プロ、BANDAI 1983)
 

博多駅の黒田武士と博多芸妓舞姿

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JR博多駅の駅前広場(博多口)に建つ銅像2体を紹介します。
 
黒田武士
彫刻家米治一製作。1970年設置。
 
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酒は呑め呑め 呑むならば 
日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば 
これぞ真の黒田武士
 
この歌詞で知られる博多の民謡
「黒田節」。
福岡藩主黒田公・家臣、母里太兵衛が名槍「日本号」を抱え、右手に大杯を持つ、堂々とした立ち姿の銅像です。
明治の新民謡で赤坂小梅がレコード吹き込みした頃は「黒田武士」と表記されていましたが、後で「黒田節像」とも呼ばれています。
 
帰省する人、転勤する人など、駅構内で多くの物語を演出しました。
 
 写真後方には、新博多郵便局とそごうデパートの新築工事の大型クレーンが写っています。現代の名槍「平成号」ですか
像にとって、今が一番、背景の見晴らしが良い期間でしょう。 写真:2014年8月23日
 
博多節舞姿
彫刻家 安永良徳製作。1968(昭和43)年設置。銅像。

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1883年(明治16年)創業の博多人形・博多織老舗 「松居」が85周年を記念して福岡市に寄贈したもの。
 
島田結いの芸者が、黒紋の留め袖着物、博多帯を締めています。
花柳界の座敷唄のひとつ、三味線で正調に歌う「博多節」を舞うポーズ。
 
 
 博多帯締め筑前絞り 歩む姿が柳腰
操たて縞命も献上 固く結んだ博多帯
博多へ来る時ゃ 一人で来たが 帰りゃ人形と 二 人連れ
 
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献上博多織「博多帯」・・江戸時代、黒田公が博多織製造業者12戸を保護し、男帯と博多正絹を幕府将軍家への献上品として作らせました。
帯の色は、徳の紫、礼の茜、信の黄、仁の紺、智の藍5色に限定
品良い博多帯は 織りが密で、締め易く、緩まない事が特長です。
 
 
 
写真:2014年8月23日
 
 
 
 
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銅像のモデルは、当時人気の名博多芸妓(芸者)“松香”。
 
彫刻家 安永良徳氏のアトリエ
(福岡市地行)でポーズをとりました。
 
写真は、安永氏の遺品を数点譲って頂いた中のアルバムからです
 
※なお、このアルバムには美術学校時代の友人、舟越保武氏の福岡滞在中の家族写真や「長崎二十四聖人像」を福岡のアトリエで一時保管していた写真もあります。
 
 
 
 真転載不可)
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戦前、博多芸者を近松門左衛門の世話物浄瑠璃(博多小女郎波枕)から「博多小女郎」と呼びました。
また「博多馬賊芸者」の異名もありました。
 
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写真の本は、『或る馬賊芸者・伝』
「小野ツル女」聞き書きより
角田嘉久著 創思社1980年
 
戦前の最盛期、千人を超えたという博多の芸者衆。
現在は20名余と聞きます。
私は、東京湯島で一度、芸者の宴席に招かれたことがありますが、以来一度も縁のない世界です。
 
 
 
黒田武士像や博多芸妓像は新駅に改装される以前の旧駅ビル時代、陸の玄関口のシンボルとして、また、待ち合わせ場所として親しまれていました。
改装工事完成後は、広場内の目立たない所に移築。日本一有名な待ち合わせ場所、渋谷のシンボルハチ公のようというわけにいかなくなりました。 
銅像の前で待ち合わせのドラマが誕生しなくなったのは、隅に追いやられた格好の設置場所が悪いのです。
 
拙ブログ:ボレロです。ヘンリ・ムアとドラえもん(パブリックアート受難時代 1他) 

中津駅周辺の福澤諭吉像

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福沢諭吉像をどうぞぅ。 
 
先日、用事で大分県中津へ行きました。
慶應義塾の創設者で教育家、日本銀行券最高額紙幣「壱万円」の肖像でも有名な福沢諭吉先生が19歳まで過ごした処です。中津藩藩士の子弟でした。
(お札の肖像は56、7歳頃の写真を使っているそうです。漫画「サザエさん」の波平が54才であることは以前ブログに書きました。)
 
JR日豊本線中津駅を出ると、大河ドラマ「軍師官兵衛」の旗が、林立しています。
官兵衛が初めて城持ちの大名になったのが、ここ豊前中津です。
「中津で、天下の夢を見た。みんなで応援しましょう。」
観光用の旗に記されたコピーです。
 
しかし、地元の人たちにとって、中津奥平家の仇役の黒田官兵衛より、福沢先生です。さすが、中津駅構内と東西出口近くに福沢諭吉像が迎えてくれます。
 
市役所側出口に立って、左前方を見上げると、「ビジネスホテルナカツ」屋上に福沢諭吉先生が腕組をしている立像が見えます。 
よく繁華街の屋上に「自由の女神」が立っていますが、それに近い感じの風景です。
ホテルの目印としては、充分すぎるほどの効果があります。
徒歩3分でホテルの下に到着しますが、少し周りを散策してみましょう。
 
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「天は人の上に人を造らず・・・」 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
(写真はすべて2014年8月24日撮影)
 
 
 
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「・・・人の下に人を造らず」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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福澤諭吉ファンでしたら、
ビジネスホテル ナ・カ・ツ。
 
『宿泊のすゝめ』でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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福澤先生、何を見たかい?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
慶應義塾大学の同窓会、三田會(みたかい)は、中津でも力があるはずです。
駅反対出口の先生像の横は、パチンコ&スロット店だし、ちぐはぐな像の設置の仕方に対し、三田会の活動で、何とかすっきりならないものでしょうか。
 
【慶應義塾大学の福沢諭吉像】
早稲田大学といえば、大隈講堂をバックにした大隈侯銅像(朝倉文夫作)が有名ですが、
慶應義塾大学なら、三田キャンパスの (重文)図書館旧館前の福沢諭吉胸像 がそれに対応する彫刻でしょうか。甥のS君が在学中に、散策して感動しました。
日吉キャンパス・メディアセンター前にも福澤先生胸像があります。
二つの胸像の台座に私物を置いたり、腰掛けた塾生は留年するという噂もあるそうです。
ひやりとする待ち合わせ場所ですね。
 
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学問のすゝめ』(1872)
 福澤諭吉 ・小幡篤次郎共著
 ほるぷ出版   昭和53年(復刻再版)
私の愛読書と言いたいところですが、読めない字が多いです。(クリックで拡大)
 
参考拙ブログ:中津駅前福澤諭吉銅像
 
 
 
 

志村立美の木版画 《夏たけて》。

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志村立美たつみの多色摺木版画 《夏たけて》。
8月のアトリエを飾りました。 1948
年(昭和23年頃)の作です。(38.0×25.0cm)
 
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志村立美
1907(明治40年)~1980(昭和55年)は、サインが「立美」ですが、男性作家です。
山川秀峰に師事し、時代小説『丹下左膳』や、子母沢寛、直木三十五、大仏次郎などの小説挿絵で有名となり、岩田専太郎とともに新聞雑誌等の挿絵や美人画で活躍しました。
 
日本近代美人版画の中で、私の好みの作家を選びますと、、橋口五葉、伊東深水、北野恒富、川瀬巴水、鳥居言人ことんど、小村雪岱、鏑木清方、菊池契月、そして志村立美となります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 High summer from“Twalve Portrait of Modern Women”
 
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部分
 
 
 
 
 
画面左の団扇の絵は、
葛飾北斎「凱風快晴」です。
 
 
 
 
 
 
 
《夏たけて》は、 《追羽根》と並ぶ彼の木版画の代表作です。
この木版画は東京国立近代美術館にも所蔵されています。
 
画題は夏の盛りを少し過ぎた頃とでもいいましょうか。今月いっぱい飾る予定です。
 
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画面下:カラ摺りで “夏たけて”
 
 
 
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画面左下:立美けん印の印
 

 
 
 
 
 
 
 
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画面右下:ぎはちしらべすみの印
      彫師 矢下忠七
      摺師 猪村正之助
      日本版画研究所 版研マーク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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参考図書:原色浮世絵大百科事典第十巻 風俗絵師と現代版画家
 57ページ
大修館書店 昭和57年発行      
 
 
 
 
参考拙ブログ・伊東深水http://blogs.yahoo.co.jp/rrnwy297/55030491.html
参考拙ブログ・志村立美http://blogs.yahoo.co.jp/rrnwy297/55199035.html

 

福岡文化連盟機関誌の表紙絵

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福岡文化連盟機関誌、第187号(平成26年9月1日号)の表紙絵に、私の作品を載せて頂きました。
 
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                                                    表紙 25,7㎝×18,2㎝
 
福岡文化連盟―1965年発足の福岡市文化連盟が前身。邦楽・民謡・吟剣詩舞道・華道・茶道・音楽・バレエ・映像・演劇・美術・文芸・生活文化などの部会会員から構成されます。
 
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目次の上に載る「表紙の言葉」に寄せて、短文を要請されたのですが、絵が語る以上に語るのも変だし、絵が語っていなければ、なおさら自作を語るのは変でして、ということで、美術以外の会員の方たちに向けて書いたのが、「展覧会で入場者を鑑賞すること」でした。
 
―受付や会場内の係を見る人。入り口の「主催者あいさつ」を熟読する人。
キャプション(説明カード)を先に読む人。審査員や、受賞の作品を中心に見る人。
知り合いの作品を探す人。メモをとる人。
イヤホンガイドの作品を見る人。ボランティアガイドの説明が楽しみな人。
素敵な観客のあとを追う人。人の流れに逆らうのが好きな人。
観光グルメツアーの行程で来た人。デート中の人。
サイン会や講演会が目的の人。「分からない」と、作品を見ずに速足で会場を出る人。何時間も見入る人。介護の合間に鑑賞する人。
 
来た人、見る人、観る人、みんな人間らしいモデルです。―
 
                                 (原稿のミスで、2か所手直しをしています。)
 
画家が語ることではないような、普通の文面になったような・・・
今回も呆れて許して下さい。
 
表紙作品の撮影にあたっては、事務局長の横尾和彦氏が自ら撮影されました。
何度も連絡を頂いたスタッフの皆様にも深く感謝いたします。
 
追記:8月26日の拙ブログ「博多駅の黒田武士と博多芸妓舞姿」、新しい資料を入れましたので、
よろしかったら再読をお願い致します。http://blogs.yahoo.co.jp/rrnwy297/56399062.html
 
 
 
 

秋なすび嫁に 新解釈に成功!

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ゆうべの夢から
 
修行僧の姿をした私が、富士登山。
山頂に立った時、茄子の形をした高さ10メートルはありそうな石碑が、
突然足元から飛び出してきた。
中央部分には、金彩で書かれた“茄子供養塔”の文字に続き、
秋なすび 嫁にくわすな」の文字が大きく深く刻まれていた。
先人はどんな気持ちを込めて彫ったのだろう。 合掌。
 
暗号研究者でもある私、さっそく解読を始めた。
先ず、文の後ろから指差しながら逆に読んでいくと・・・
解った! あまりにあっけない幕切れ、眼覚めであった。
忘れないうちに、すぐ枕元のメモ紙に再現、記録してみた。
 
秋なすび 嫁にくわすな 
-→ なすわ くに  嫁 び   す な 秋
-→ なすは 食に 嫁 すな 秋 
 
一般的に3種類の解釈がありました。
一つは秋口の茄子が美味しいので、憎い嫁には食べさせない。
二つ、茄子は体が冷えて体に良くない。可愛い嫁の体を案じた。
三つ、茄子は種が少ないので子種が無くなるのを心配した。
 
私が見た夢のお告げでは、茄子を食べ過ぎた姑に対しての注意勧告でした。
この歴史的発大見を、どこに持って行けばいいのでしょう。
文字解読学者が恐れをなすか、国文学者が反論をなす術もないか・・・
 
あれっ、何か夢の中で見忘れたような・・・ あぁ「鷹」だった。
 
 

木ノ下淳一と一の会作品展

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第7回 木ノ下淳一と一の会作品展 御案内
 
2014年10月7日(火)~10月13日(月)
午前9時30分~午後5時30分 (最終日は午後5時まで)
福岡市美術館2F 市民ギャラリーD室
 
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福岡市天神で絵を描いている
皆さんを中心としたグループ展です。
 
参加自由、ジャンル自由、点数・サイズ自由、ペンネームOK・・・
観察して感じたことを自分らしい表現で描いています。
 
美術館がある大濠公園やお隣福岡城の散策に良い季節、
会場内外で深呼吸して頂けると幸いです。
 
 
 
お問い合わせ/岩田屋コミュニティカレッジ(092)781-1031
 
 

私もエア・ケイと呼ばれました。

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錦織圭にしこりけい、いよいよ明日早朝、全米オープンテニス決勝戦!
今夜は十五夜、中秋の名月です。そして翌日満月。
何か持っています、ツキもあります、錦織君。 (想像を絶する実力でしょうけど。)

相手はクロアチアのマリン・チリッチ。クロアチアといえば、サッカーW杯ブラジル大会の開幕戦、対ブラジル戦で、日本の主審がブラジルに与えたPKが問題になりました。クロアチアからすれば、しこりは残っているでしょう・・・
 
錦織といえば、エアK。
エア・ケイは、高くジャンプしてのショット。空中でのジャンプショット、高い打点から打ち下ろせるので角度がつけられ、足が着いた状態で打つより、腰の回転スピードが増しストロークの決定力は上がるといいます。
通常のフォアハンドより空中のバランスが安定し、軸がぶれない・・・ここら辺は受け売りの世界だなぁ。
 
考えてみれば、私も昔から「エアK、エアキノシタ」と呼ばれていました。
存在感が無い、気配が無い。家族や学生の背後に立って、きゅうに驚かれることがよくあります。私は忍びか!?
漫才で“自動ドアも開かない人”っていうのもありましたね。
 
エアギターの世界大会で、今年も日本の女性が優勝したみたいだし、空気を読むことが好きな国民性です。
エアーデッサン、エアー絵画の技に磨きをかけて頑張ろうっと。
 
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肘を故障してテニスを断念した時の愛用ラケット(完全妄想世界)

棚からおはぎとは言わない

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秋風が身にしみる朝になりました。
昨夜の満月は、大陸育ちのPM2・5のせいでしょうか、少し霞んでいました。
地平線から上がった直後の満月は実に大きく見えます。目の錯覚とはいえ感動します。(その前日の十五夜、中秋の名月はまた見事でした。)
 
あと十日で彼岸入り。秋の和菓子、「おはぎ」が浮かびます。
小豆、もち米、うるち米、砂糖、黒ごま、きなこなど同じ材料の「ぼた餅」に比べ、おはぎは期間限定の呼び方みたいです。いや、固さやこし方が違う、地域で呼び方が違う、と諸説あるようですが。
 
彼岸の頃、咲く花「牡丹」で、牡丹餅。秋咲く花「萩」で、おはぎ。と分けて呼んだ方が風情がありますね。
 
棚からぼた餅。略して棚ぼた。―思いがけなく、また労せず幸運に恵まれること。
棚からおはぎ、とは言いません。ぼたっと落ちるから?
 
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近所の菓子店ディスプレー。
 
敬老の日や秋分の日は忙しそうです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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