今回はちょっと長くなります。
8月15日を終戦記念日と言うことに、私は抵抗があります。
昭和20(1945)年8月15日は、ポツダム宣言を受諾し、大日本帝国陸海軍が無条件降伏した日であって、それ以降も、外地の白旗を掲げた日本兵や民間人に対しての攻撃や、飢餓、病気、ケガなどとの戦いは続いていました。
極寒の収容所送りや強制労働、残留邦人の引揚げが戦後何年もかかったことなどを考えると、8月15日を“終戦”の日だなんて、とても言えません。
「敗戦の日」、または「降伏の日」と呼ばなければ、亡くなっていった方たちに申し訳ない気がするのです。
これを自虐史観というなら、なんと潔くないことでしょう。「もののふ」が聞いて呆れます。
日本人だけが被害者だったとは言いません。撤退する日本軍の一部が、現地の中国人や朝鮮人を証拠隠滅で殺したとの報告が元日本兵からの証言であります。逃げる際に部隊が、日誌や機密文書を廃棄、焼却したという事実を知ると、その混乱ぶりが想像できます。
15日以降、加害者でもあったことは、認めなくてはなりません。
戦勝国を中心に、映画や小説をはじめ、各種メディアで数多くの戦争特集が組まれます。最近感じることですが、以前と比べて日中戦争や太平洋戦争の検証が減り、ナチス・ドイツ関連の正確な史実によるものが増えたような気がします。
欧米諸国のほうが戦争責任の追及を徹底し続けているということでしょうか。
さて日本です。第二次世界大戦を直接体験した、当時10代前後の人たちも高齢者となり、正確な証言を得るギリギリの時期になっているようです。
大変悲惨な体験をされた方は、真実を語りたくないし、ペラペラしゃべる人は美化した体験談が多く、客観的な記録収集が困難な状況になってきました。
その当時の歴史を、学校では時間をかけて教えてはくれません。
日中戦争や太平洋戦争を試験問題で問うことは、デリケートな背景があり、タブーだから、入学試験には出題されない。だから勉強しなくていい。
暗い、重い、うざい、つまんない、興味ない・・・
広島や長崎、沖縄の語り部に対し、若者がスマホを見続けたり、罵倒する時代です。日本史の流れにおける中ヌケ状態を感じます。
司馬遼太郎も、この時代の詳しい描写を避けたくらいです。
窮鼠猫を噛む・・・第一次世界大戦あたりからの深い闇があることは想像できます。パンドラの箱を開けず、地雷も踏まずにおきましょう、ということですか。
百歩下がって考えてみます。千年、二千年前の歴史を猛勉強して、おじいちゃんや、おばあちゃんの個人的な幼年期や青春時代を全く知らないまま平気っていうのも、なんだか妙です。
邪馬台国論争をし、織田信長の死因を探るのも結構。でも、つい数十年前の祖国の歴史や祖父母の青春を知らないなんて・・・やっぱり変です。
私が、先の戦争にこだわるのは、親の戦争体験が大きく影響しているからだと思います。
戦時中、父の家族は、新聞記事になるくらいの軍国家族でした。
親子4人が戦地に行き、空母・飛龍に乗っていた叔父はミッドウェー海戦で亡くなっています。旧制中学の生徒だった父は、沖縄戦に向かう直前に、宮崎の部隊で玉音放送を聞きます。家は空襲で焼けました。
母の家族は、“北方領土”樺太(現在のロシア・サハリン)からの引揚げ者です。
戦後2年間をソ連の占領下で暮らし、財産没収の丸裸での帰国でした。
昭和20(1945)年8月14日、最後の御前会議に出席した海軍省軍務局長・保科善四郎という人物が、母の大叔父なので、その親戚の影響も、こだわりの一因にあります。
戦時中の枢機にかかわる重要会議の模様を書き留めた「保科メモ」で知られ、戦後、野村吉三郎元大将、山本善雄元少将らとともに、海上自衛隊の前身、海上警備隊創設に深く関わりました。(映画『日本のいちばん長い日』にも登場します。)※
叔父たちは保科氏に会っています。私は、学生時代に会おうと思えば会えたのですが、若気の至りか、反骨精神からか、話を直接伺うことはありませんでした。
今となれば一度、話を聞いておけば良かったと思います。このことは、またいつか別の機会に・・・
以前、両親どちらも、私が戦争の話を聞いた日は、興奮して夜が眠れないと言っていました・・・
写真の絵は、8月9日夜、ポツダム宣言受諾を決定した宮中防空壕での御前会議の様子。
中央は天皇陛下。横に立つ人物は鈴木貫太郎首相。左より二人目が保科氏。(保科氏著書から)
写真の絵(白川一郎画・鈴木記念館蔵、部分)は、8月14日最後の御前会議。
23人の列席者で開かれました。左より五人目が保科氏。
※参考文献:左から
太平洋戦争秘史―海軍は何故開戦に同意したか(保科善四郎他共著・財団法人日本国防協会)、
米内光政(阿川弘之著・新潮社)、
井上成美(阿川弘之著・新潮社)、
井上成美(加野厚志・PHP研究所) 続きます