前回からの続きです。
長谷川さんが回想して描いた『サザエさんうちあけ話』に登場し、サザエさんのアイデアが浮かんだとされる百道ももち海岸は、筑前八松原の一つに数えられた、全長2、5キロメートルほどの松原でした。 (黒田藩が植林を指導したとのこと。)
百道海岸は、戦前戦後、福岡県で最も美しい海水浴場とも言われ、県内外から多くの人たちが訪れて活況を呈したそうです。 長谷川さん家族がいた頃は、さぞかし美しい海だったことでしょう。
その海岸、1968年に、わたしが中学1年の2学期途中に転校してきて以来、高校を卒業するまで、家と中学校を結ぶ砂浜の通学路でもありました。 海岸と砂浜、そして松原を称える中学校の校歌には、「松千歳の色に映え 砂白妙の玉を敷く あゝ清浄の百道原」 の歌詞がありました。
サザエさん発案の地 百道海岸 (1981/08/26)
埋め立て工事が始まる前年の百道海岸。「海の家」や「貸しボート屋」が廃屋と化しています。
写真奥の海岸べりに中学校がありました。
その家は、高層マンションに建て替わっていました。 長谷川さんの家から徒歩5分の場所です。
当時の家は、樋井川の左岸、河口近くの護岸縁に建っていた木造西洋館(旧制福高の外国人教師宿舎)の数軒上流でした。
長谷川さん家族宅と同じ町内の、わずか400mほどの距離であったことと、長谷川さんが東京へ移られて22年後に、わたしたち家族が移り住んだことを、後日知りました。
埋め立て工事が始まる前年の百道海岸 (1981/08/26)
さら地になった「海の家」の跡です。 相撲部屋があったことを偲ばせる土俵が残っていました。
右の島:志賀島 左の島:能古島
波打ち際(現在のよかトピア通り沿い)の通学路には、「海の家」が並び、夏は海水浴で賑わい、冬は「ピオネ荘」など大相撲九州場所の相撲部屋の合宿所となりました。 砂地が延々と広がっていて、足腰を鍛えるには、最高の場所で、砂だらけになった「輪島」や「先代貴乃花」たち関取衆の稽古を間近に見ることが出来ました。
沖を見ると、50m先に海水浴場の飛び込み台があり、冬場はノリ養殖の網がびっしり並んでいました。 貝堀り(アサリやマテ貝)や、ハゼ釣りは簡単に出来ましたが、昭和40年代後半から公害の影響か、魚介類がみんなドロくさくなりました。 気付けば、白砂清松はくしゃせいしょう は名ばかりの、地元民が泳がない海になっていました。
百道海岸にあった「西鉄ライオンズ二軍合宿所」。
1981年夏の撮影時は廃墟になっていました。 (1981/08/26)
海岸一つ手前の道には、西鉄ライオンズの二軍合宿所や、バッティグセンターのような室内練習場があり、打球音が響いていました。 深夜、中西太選手や稲尾和久選手が酔いつぶれ、仲間に支えられて家の前を通ったことを記憶しています。
梅雨が明けたころは、カブトガニの産卵シーンを見ました。 ノルマンディ上陸作戦のように、100匹以上のカブトガニが砂浜に上陸していた年もありましたね。 長谷川さんが、波打ち際でカブトガニの産卵シーンを見ていたら、サザエさん家族の名前に「かぶと」 が加わっていたかもしれません。
百道海岸で捕獲したカブトガニの剥製
中学校の理科教室で剥製にしました。 全長57㎝ 剥製はアトリエに飾っています。
追記:
日曜夕方のアニメ番組、「サザエさん」(フジテレビ系) といえば「提供――東芝」が連動して浮かびます。 テレビ放映が始まった1969年からの長いお付き合い。 メインスポンサー東芝の技術力と信頼を、こどもたちは疑いませんでした。 しかし、その東芝が経営サイドに恵まれず、米国の原発事業の巨額損失で経営が悪化。 経営再建中となり、3月末でサザエさんの番組提供を降板しました。
同じく1社提供の「東芝日曜劇場」(TBS系) の番組も撤退で、「エネルギーとエレクトロニクスの東芝」 が泣いていますね。 優秀なエンジニアたちが社外に流出して非常に残念なことです。
このブログ、東芝のノートパソコン(2010年製 ダイナブック dynabook) で打っています。メチャクチャな使い方でも壊れません。 東芝を選んだのも、どこかにサザエさんの影響があったことは確かです。